道
題名:道
副題:命を燃やす、静かなる『道』の歩き方
今回は「生き方」そのもの、私たちが歩いているこの「道」について、少し深い話をしたいと思います。
突然ですが、みなさんは今、忙しいですか?
時間を無駄にしないように、効率よく生きようとしていませんか?
実は、私自身にもそんな時期がありました。
家事、育児、仕事に忙しく「とにかく時間がない」と焦っていた頃のことです。
私は時間を徹底的に「効率化」しました。時短家電を買い揃え、買い物に行く時間も惜しいから食材はすべてネット通販。通勤途中に仕事の勉強。急な移動にはすぐにタクシーを利用する。
「お金で時間を買う」ことで、生活は見事に回っていました。
でも、ある日、ふと気づいたんです。
「私、一番好きなはずの料理を、まったく楽しめていないな」って。
時間を節約するために、自分の好きなことまで省略してしまっている。
じゃあ、そうやって必死に捻出した「空白の時間」で、私は一体なにをしようとしていたんだろう?
そこにあったのは、達成感ではなく、「虚しさ」でした。
今回は、そんな私の実体験から見えてきた、現代人が陥りやすい罠と、そこから抜け出すためのヒントをお伝えします。
私たちは社会の中で生きていると、どうしても「適応」しようとします。
周りから浮かないように、失敗しないように。それはまるで、風に合わせてロウソクの炎を小さくして、消えないように守っているようなものです。
でも、それは「生きるための自由」ではなく、「うまくやるための不自由」を選んでいるだけかもしれません。
ここで一つ、大切な問いがあります。
よく「答えは自分の中にある」と言いますよね。私もそう思います。
けれど、真面目な人ほど、この言葉の罠にはまってしまうんです。
「自分の中にあるはずだ」と、自分の内側ばかりを覗き込んでしまう。
これはずっと「鏡」を見ている状態です。
鏡には、悩んでいる自分しか映りません。
「私はどう見られているか」
「私は損をしていないか」
矢印が自分にばかり向いている。これを私は「自己固執」と呼んでいます。
本当の「道」を見つけるために必要なのは、鏡を見ることではなく、「窓」を開けることです。
私たちの心は、外の世界や、自然や、体験に自分を映し出し、そこから跳ね返ってきたものを感じて初めて、「あ、自分はこういう人間なんだ」と理解できるようにできています。
ずっと部屋の中で考えていても、答えは出ません。
外の風に当たり、誰かと話し、何かに触れる。その循環の中にしか、本音は見つからないのです。
では、どうすれば他人の目や評価を気にせず(比較せず)、窓を開け放つことができるのでしょうか。
少しドキッとする言葉を使いますが、鍵は「死」をどう捉えるか、にあります。
私は、祖母から昔の話をよく聴きながら育っています。
結婚してから、子どもが生まれてからも、母と一緒によく会いに行き、話を聴いたり家事育児を教えてもらったりしています。
私の祖母は疎開先で生まれましたが、戦争で父親を、3歳の頃に病気で母親を亡くし、祖母と叔母に育てられました。
昔は、子供が元気に大人になることは当たり前ではありませんでした。戦争や病気で、家族や友人が亡くなることも決して珍しくありませんでした。
命はもっと儚く、死は日常の隣にありました。
だからこそ、昔を生き抜いた世代は「今日、生きていること」の奇跡を知っているのだと思います。「命の尊さ」を実感して生きられるのだと思います。
祖母は近所の子供たちの乳母として、親族や行き場のない子供たちの食事を作る母親代わりとして、血縁関係も国籍にも関わらず、たくさんの子どもたちを育て上げました。
現代の私たちは、「死」を遠ざけすぎて、「人生は無限に続く」と錯覚してしまいます。
ゴールが見えないマラソンを走らされているようなものです。だから、隣のランナーを見て「あの人より遅れている」「あの人より損している」と比べてしまう。
でも、もし明日、大切な人に会えなくなるとしたらどうでしょう?
「あの人よりいい暮らしがしたい」なんて思うでしょうか?
きっと、「もっと話したかった」「もっと笑い合いたかった」と思うはずです。
「いつか終わりが来る」と静かに意識することは、決して怖いことではありません。
それは、余計な「比較」や「見栄」を削ぎ落とし、今のこの瞬間の純度を極限まで高めてくれる、温かい光のようなものなのです。
人生100年時代といわれて、もしあなたが途方もないきもちになっているとしたら、そっと自分に問いかけてみてください。
「もし明日死ぬとしたら、今日をどう生きたい?」
あなたが大切にしたい本音が、見えてくるかもしれません。
