「何者か」になりたい
結果自然成(けっかじねんなり)という禅の言葉をご存じでしょうか。
「やるべきことを精一杯やれば、結果は自然と後からついてくる」という意味の禅語だそうです。
今回はこの結果自然成(けっかじねんなり)を考えてみたいと思います。
今を生きる私たちは
「もっと知識をつけなければ」
「早く何者かにならなければ」
「あの人には負けたくない」
そんな焦燥感に駆られて、自分を追い立ててしまうことはありませんか?
現代の私たちは、何者かになろうとする時、つい「足し算」で自分を埋めようとしてしまいます。
新しいスキル、最新の知識、人から尊敬されるような肩書きなど
そうやって自分を「武装」し続けることで、いつの間にか心の余裕を失い、自分自身を追い詰めてしまう。
かつての私も、まさにそうでした。今もそうかもしれません。
「頂き」に立ちたい、周囲から尊敬されたい。何者かになりたくて必死に知識を詰め込み、自分を追い込んでいました。
けれど、そうすればするほど、呼吸は浅くなり、人とぶつかり、本来の自分から遠ざかっていくような違和感が膨らんでいったのです。
そんな時、老子の思想は私たちに「徹底した引き算」を教えてくれます。
老子は「学を絶てば憂いなし」と説きました。
これは学ぶことを否定しているのではなく、自分を大きく見せるための知識や、自分を縛る常識を「手放す」ことの提案です。
また、「上善は水の如し」と
水は、器に合わせて形を変え、決して争いません。ただ重力に従って、低い方へと流れていく。けれど、その柔らかい水が、時として巨大な岩をも穿つのです。
自分の力だけで何とかしようと力むのをやめ、自然の大きな流れに身を預けてみる。
「何者か」という鎧を脱ぎ捨てたとき、私たちは初めて、水のような本当の強さを取り戻せるのかもしれません。
もし今、あなたが余裕を失っているのなら、近くの庭園や森へ足を運んでみてください。
そこにある木々や川の流れを眺めていると、一つの事実に気づかされます。
彼らは誰かに尊敬されようとはせず、ただただ流れに身を任せています。
ただ、その生を全うすることに実直であり、「その生を生とするの厚きをもってなり」(生きようと執着しすぎないことで、かえって生が輝く)という境地を、ただそこに在るだけで示してくれています。
自然界に「常識」という概念はありません。
幸福な道は、誰かが決めた物差しの中ではなく、自分自身の「自然(じねん)」なリズムの中にだけ存在するのです。
自分を「引き算」して今に戻すための第一歩として、まずは日常の「食事」から変えてみることを提案したいと思います。
スマホを見ながら情報を詰め込むのをやめ、一口の食べ物を、目をつぶってゆっくりと噛み締めてみる。
舌の上で広がる味、噛み締める音、喉を通る感覚。
「おいしい」という純粋な感覚に没入する瞬間、頭を支配していた「足し算の思考」は消え、あなたはただの自分へと帰っていきます。
何者かになろうとしなくていい。
ただ、水のように流れるあなたとして、今日という日を味わってみてください。
空白や余白の時間は、あなたの強い味方になり、より良いあなたを形作ります。
結果自然也、一緒に自然(じねん)のリズムを感じる時間を創っていきましょう。
