『修行』

型があっての型破り とはよくいったもので

最初は不格好でも見よう見真似でやるしかない

鏡に映る自分を見た時の

至らなさといったらまるで辱め

右手で岩を掴みようやく登れたと思っても

果ての見えぬ景色の広がりに立ち尽くす

膨大な知識

体現する技術

それでも わたしは

わかるようになりたい

キャリアについて考えるとき、「自分らしさ」や「主体性」という言葉がよく語られます。けれど正直にいうと、うまくいかないときほどそれがわからなくなる。

そんなときに自分のキャリアプロセスを捉える視点として、「守破離」という考え方があります。

諸説ありますが、江戸千家流の茶人、川上不白による「不白筆記」が出典とされているようです。

私自身の感想を含めて、現時点での理解を書いてみたいと思います。

1、守

まず「守」。ここで大切なのは、型をなぞることではなく、覚悟を決めて一つの型の世界に没入することです。教えに身を預け、自分のそれまでのやり方や考え方を一度脇に置き、型の中に沈み込む。

この時期は自由が少なく感じられることや、批判的な気持ちが動きやすくなりますが、実は型を守ることを通して自分の癖や思い込み(ステレオタイプ)があることに気づき、それを受け入れるための静かな準備が進んでいくように思います。

2、破

やがて、守を徹底して極めた先に、自然とその殻が破れる瞬間が訪れます。それが「破」です。

ここで起きているのは、「型を壊そう」とする意図的な変化ではありません。守り抜いた結果として、ある瞬間に“見え方が変わる”という身体性を伴う変化です。

それまで内側の一方向からしか見えなかったものを、外側からも捉えられる視点が生まれます。その視点の変化が、結果として“型を破る”状態なのではないかと考えます。

ここでは、型を破ることの罪悪感(内側の目)と新しい自分なりの視点(外側の目)が生まれた喜びの、両方の気持ちを常に行き来するような複雑で不安定な心境になります。

3、離

さらに進むと、「離」の段階に入ります。

離とは、型を手放すことではなく、型が身体に馴染み、意識しなくても必要なときに自然に現れてくる状態です。

一つひとつ考えなくても、状況に応じた判断や行動が無理なく出てくる。いわば、無意識の中に型が息づいている状態です。

ただし、ここで終わりではありません。

守破離は「離れたら完成」という直線的な成長ではなく、再び守に還っていく円環的なプロセスでもあるように思います。

新しい領域に挑戦しようとすると、型を必要とするためです。その際、あまりにも“離れすぎてしまう”と既に身につけた型も失うような感覚を覚えます。

逃げ出したい。甘えたくない。自分流でやりたい。

もうここまで十分やってきた、と思いたい。完成として、終わりにしたい。

それでも、自分はまだ成し遂げていないことがありありと見えてしまう。

このような心境のとき私は必ず、“守”に戻るように気をつけてきました。

一番はじめの教えに戻り、それを唱えるのです。

真の教えとは、読み手の成熟に応じて永遠に意味を与え続けるものだと思います。

そうして一から守が始まる。守り、やがて自然に破れ、離れ、そしてまた次の守へと戻っていく。

この循環を繰り返すことで、型が習得される。これが、次世代への継承なのではないか、とわたしは考えています。

うまくいかないときほど、「もっと自由に」と迷い、「自分らしさ」の答えを外に求めたくなりますが、実はもう一度、守に立ち返ることが次の突破につながることもあるのです。

守破離は、自分らしさをつくっていくためのテクニックというよりは、自分の現在地を静かに見つめるための地図のようなもの。

守り切ること、自然に破れること、そして気づけばできていること。その繰り返しの中で、キャリアは無理なく、しかし確かに育っていく。

その積み重ねの先に、結果として“その人らしさ”が立ち上がってくるのだと思います。

あなたの守はどこにありますか?

誰の教えを、思い出しますか?

一番初めに浮かぶ場所に還ると、新たな視点が見つかることもあるかもしれません。

(F)