FとMのダイアローグ26
M
今回のテーマは『多様性』について対話していきたいと思います。
私はついつい抽象的な言葉を組織の話に結びつけて考えてしまうんですが、多様性と聞くと、国籍や性別といった大きな枠組みを思い浮かべる方も多いと思います。でも、どんな組織やどんなに小さなグループだったとしても、そこに「多様性」は必ず存在すると思うんですよね。当たり前のことなんですけどね。だからこそ、そこでできたグループや組織には、必ず個人の価値観の差や違いが生まれるわけです。そのお互いの価値観や特性の違いを否定するのではなく、パズルのピースのように補い合う形で、1つのものを彩っていくのが一番いい状態なんじゃないかなって。
多様性と聞くと、すぐにそういうパズルのイメージを持ってしまうんです。前回の育成ともつながってしまいますね。Fさんはこの「多様性」という抽象的な言葉をどのように解釈されますか?
F
とても興味深く面白い発想だなと感じました。そしてMさんの言う通り、どんな組織やグループにも多様性がありますね。例えばどのようなパズルのイメージがあるのか気になりました。
私がちょっと最近考えていることは、多様性の共存って案外難しいなということです。個に重点が置かれる時代で、それぞれの個性の在り方や立場の権利が主張できるようになったという点で素晴らしい発展であると感じています。
けれども、どうして社会が楽しそうにならないのかと考えてみると、多様性が認められるための責任の所在もまた、“個”に追及する風潮が強くなっているのではないかと思うことが一つです。“連帯責任”って私が学生の時はまだ部活内で誰か粗相したらみんなで坊主にするとか負の決まりがあって。そんなことしたら今は大問題ですけどね。でもそういうみんなで責任を負う精神みたいなのが薄まってる気がしませんか。
社会の責任はやっぱり、誰かや何か特定の組織に求めるのではなく、みんな自分事で考え続けなければいけないとずっと思っています。失敗した個人を叩くのではなくて、自分自身がどうだったかをまず内省しなけばいけない。
多様性の中で共存するってすごく難しい。いろいろなコミュニティや情報サイトができていて、ムーブメントみたいなことが起こっては消え、なんだかもう飽和状態にも見える。
だから次のステージとしては、多様性の中で“どう手を取り合って活動していくか”ということが大事なのではないかと最近考えています。これは逆説的なようだけど、“個を離れる”という作業も通過儀礼として必要になってくるのではないかと思っています。もっと大きい流れの中で自分事として考えながらまとまって生きていくということも意識的にやっていかないと、多様性の社会基盤がいつまでたってもできないような気がします。
M
まず、私が言った「パズル」のイメージについてです。私がイメージしているのは、あらかじめ箱に描かれている正解の絵柄に向かってピースをはめていく、というものではないんです。そのグループや集団ごとに「自分たちはどんな目標とする絵を描き、自分がどんなパズルピースになるのか」というイメージ自体をみんなで話し合って作り上げ、そこに向かって動いていく。そんなプロセス込みのパズルを想像しています。
そして、Fさんが仰った「多様性の共存の難しさ」や「連帯責任が薄れている」という点、これについては全く同意です。一方で、なぜそうなっているのかと考えると、一昔前なら、人間は集団で行動するしか生き延びる方法がなかったんですよね。例えばかつての農村では、全員で様々な作物を作って分け合わないと、不作の時に飢餓が発生してしまう。「私は私」なんて言っていられない、生存のための連帯の必要性があったわけです。
そう考えると、生存の危機を感じることがほとんどない現代社会において、連帯の必要性が薄れ、集団意識が消えて個人の主張が増えていくというのは、ある意味でごくごく必然のことなのかもしれません。結果として、地域の結びつきなども無くなり、人々はどんどん孤立化しています。また、社会の責任を特定の誰かではなく「自分事」として考えるべきだというFさんの意見についても本当にその通りだと思います。ただ自分が宇宙の一部であるというようなマクロな意識を持つのって、現代人にはかなり難しいんじゃないかとも思うんです。 私たちはもともと自分たちの欲で動かされていますよね。そこからふと立ち止まって、自分のちっぽけさや宇宙の偉大さを感じるには、心の中に「余白」が必要です。でも、昨今の目まぐるしい世界の状況の中で、自分とは何なのかを考えるための「余白」を持てている人は、ごく僅かなのではないでしょうか。
Fさんは、多様性のムーブメントが飽和している中で、次は「個を離れる」作業が必要になると仰っていました。多様性という言葉が世界に浸透していく今の状況は、まさにグローバリズムの正体を見る思いで、立ち止まって判断する必要があると思っています。もちろん、手を取り合って連帯していく価値は素晴らしいと思います。でも、私は逆説的かもしれませんが、現代の人々には、連帯へ向かう前にしっかりと「孤独を味わう」という通過儀礼が必要なんじゃないかと感じているんです。とはいえ、私たちは社会的な生き物ですから、孤独の果てにはやはり、どこかで誰かと繋がって生きていきたいという本能が働きます。だからこそ、連帯が必然ではなくなったこの時代に、私たちは「どのような社会を目指して多様性を尊重していくのか」を、意図的に考えなければいけない。そう思っているんですがFさんはこのあたり、どう思われますか?
F:
パズルのイメージをみんなで話し合って作り上げるということなんですね。土台がないままに「違いを認め合おう」「個性を尊重しよう」とバラバラに動いても、なかなか形にはならないですよね。どのような社会を目指して多様性を尊重していくのかを考えなければいけないということも本当にそうですよね。
孤独を味わうという点については、「一人の時間を作って行動する」とか「スマホを触らないで連絡をとらない日を作る」とか、そのような意味であれば大切だと思います。たくさんの繋がりが無秩序にある状況は疲れます。
ただ、私の感じ方としては通過儀礼というよりは、セルフケアみたいなイメージです。雑念がない状況を作って、自然な状態の自分に戻るみたいな感覚です。
たくさんの繋がりがあっても精神的な繋がりを感じられていなければ「自分は一人ぼっちだ」という孤独感が生じます。これは様々なメンタルヘルスの問題や自死のリスク因子です。そして、声をあげて多様性社会の実現を目指してきた、“多様性のリーダー”たちは、こういった感覚と表裏一体を生き抜いて今がある。命がけで孤独を生き抜いた方々の勇気の結晶で迎えた現代です。
でも、じゃあどうして、多様性の尊重が大切だとわかっていても実現が難しいのか。どうして、共に生きることが難しいのか。それは「多様性を支える社会基盤(土台)がないから」というのが私の見解で、先程の話に戻ります。
だから社会をつくる一人一人が、いったん個人の価値観を離れる機会も意識的に作って、土台作りの活動に目を向けていくステージに来ているのではないか。多少個人としてはストレスや痛みを伴うけれどやっていかないといけないのではないか。
実は私自身が最近そういうことを意識して活動するようにしているんです。これまでは、自分らしく働くということを追求してきて、同じような価値観の人たちと支え合ってきました。でも最近は、苦手意識があったことや価値観になかった活動も頼まれたときは少しお引き受けするようにしています。
具体例を一つあげると、PTAや地域活動です。これが本当に学びが大きいです。年代も30~70代,80代の方もいて、価値観もライフスタイルも様々で連絡をとる手段がちがうので、一つのことを決めるにもものすごい時間と労力がかかります。枠組みがないため仕事より何倍も苦労します。
そこでの気づきは、多様性社会ってお互い寛容になるしかなく「まぁまぁ」な感じで進んでいくのかなということです。「よりよくしよう」ではなく「活動が在ること」そのものが大切。いい加減だけど、いい加減だからこそ、何かあったらよく知らない人でも助け合う心の余裕がある。こういう個の価値観を超えた活動をみんなで行うことも、社会の基盤になるような気がします。
M
PTAや地域活動については、確かに「よりよくしよう」ではなく、お互い寛容になって「まぁまぁ」で進めていく。そのいい加減さや心の余裕こそが、多様性を支える社会の基盤(土台)になるというのは、本当にその通りですね。
Fさんが仰る「精神的な繋がりを感じられない孤独」については、私も今、本当に深刻な社会問題になっていると感じています。特に現代はSNSなどで常に誰かと比べてしまう文化が蔓延していて、それが人間の本質に合っていないからこそ、より孤立感を深めている気がしてなりません。一方で、繋がり方について最近少しハッとすることがありました。先日、車で地方へ出かけた際に気づいたんですが、若い人たちがずいぶんと地元のお祭りに参加しているんですよね。一昔前だと、お祭りってちょっと年配の方の近寄りがたい文化みたいなイメージもありましたが、そこに若者文化がどんどん入ってきている。今の学校現場なんかでも「全員に一律で同じことをやらせる」ことに対して拒否感を持つ方が多くなっていますよね。でも、お祭りのように同じ動きを一体化して行うことで協調性が生まれたり、集団行動の良さを感じられたりする。そういった自発的に飛び込める連帯の場って、今の社会ですごく必要とされているんだと思います。ただ逆に言うと、そういう輪に飛び込めない人たちの孤立感は、今後ますます強くなってしまうんじゃないかという危惧も同時に抱きました。
あと、ちょっと視点を変えてお話ししてみたいんですが。多様性って、何も人間社会に限った言葉ではないですよね。私自身、多様性と聞くと「腸内細菌の多様性」とか、「山に育まれる植物の多様性」といった自然界のシステムも連想してしまうんです。世界そのものが多様性で成立している一方で、例えば外来生物が入ってくると、その多様性の一部だけが強くなって、環境にしなやかに適応して生きていけるものだけが残っていく、というシビアな現実もあります。そう考えると、人間社会の多様性も「とにかく全部をそのまま受け入れよう」という話ではなくて、自分たちの環境の中で「守るべきところ」と「変えるべきところ」を見極めていく。そうやってしなやかに適応していくこと自体が、多様性の向かうべき一つの方向性なのかなと思ったりもしたのですが、いかがでしょうか?
F
地元のお祭りの例はとても納得します、企画運営したことがあります(笑)。ここまで多様な時代ですと、Mさんが懸念するような場に入りにくいライフスタイルや性質の方を、存在を尊重しながらもどのように孤立を予防するかが課題でもありますね。
私は専門ではありませんが、認知・発達心理学の分野においても、腸内フローラの多様性と感情・脳との関連は研究が進んでいる途中の分野です。感じ方や脳の特徴の多様性といったことが次々と明らかになっています。そこで私が感じていることは、マイノリティーマジョリティという分け方がそもそも間違っていそうで、私たちはかなり多様な存在であるという前提がありそうだというです。
社会システムを維持する上では、当然秩序が必要になります。なので個を尊重する姿勢を守りつつ、システムを変革していくということも生存戦略として必須なのではないか。自然界も脳も身体も個々に働いているわけではないので、社会も緩やかな連帯が重要だと考えています。ネットワークシステムの話です。Mさんの得意分野だと思いますので、希望と期待を込めて応援しております(笑)
今回は多様性をテーマにお届けしました。この言葉が示す通り、個人の生き方や社会、身体の話まで、さまざまな視点から広く考えてみる回になりました。皆様それぞれがお好きなところを切り取って、自由な読み方をしていただければ幸いです。
ダイアローグとは、単なる情報交換を超え、参加者同士が相手の意見や考えを深く理解し、共感を深めながら、新たな視点や行動の変化を生み出す「対話」を意味します。
組織では、相手と自分との間に「相互理解」と「共通の理解」を築くためのコミュニケーション手法として用いられ、信頼関係の構築や創造性の育成、組織力の向上に繋がります。
組織をマネジメントする立場にある人にとっては欠かせないスキルです。ただ、センスで乗り切っている人が多いと感じる印象もあるので、具体的な対話で学べるように表現してあります。
