不自由

M

今回は「不自由」をテーマに対話していきたいと思います。

不自由と聞くと、私たちはつい制限や障害といったネガティブなイメージを抱きがちです。しかし、私はこの「不自由」こそが、私たちがこの世に生まれてくるときに自ら選んで決めてきた「初期設定」のようなものではないかと考えています。

どのような親のもとに生まれるのか。どんな環境で育ち、いつ、誰と出会うのか。あるいは、思いがけない事故や体調不良にいつ直面するのか。私たちが人生で体験する、一見すると自分の思い通りにならない事象の数々は、実はあらかじめ自分がデザインして持ち込んだ「不自由設定」なのではないかと。ちょっとスピリチュアルっぽい話になってしまいましたね。

Fさんは不自由という言葉からどのようなイメージをお持ちでしょうか?

F

世の中には、本人の力だけではどうにもならない不自由もたくさんありますよね。

「不自由は初期設定であり、自分で選んだデザイン」という考え方について、私は少し違う捉え方をしています。たとえ後から「自分で選んだ」「自分で決めた」という意味を見出すことができたとしても、それはさまざまな道のりを経たうえでの、一つの結果なのではないかなと思います。だから、それをすべての人に当てはまる「初期設定」として捉えることには、少し慎重でありたいと感じています。

思い返してみると、私は「不自由」という言葉自体を、ネガティブにもポジティブにも捉えず、なるべく評価しないようにしてきたように思います。以前、Mさんと「自由」についてお話しした回を読み直して、改めて「不自由」について考えてみました。

一つは、状況によって生じる不自由です。
それは、自分の内側から決めたことなのか、それとも外側から決められたことなのか。そもそも選択肢の中から選べる状況にあったのか。自分の思いや考えを表現することが認められていたのか。そうしたさまざまな前提も、不自由には大きく関係しているように思います。

もう一つは、自分で選んだことから生じる不自由です。
はじめは自分で選んだことであっても、周囲の期待や前例、組織から求められる役割などに沿うことが次第に大きくなっていくと、いつの間にか窮屈さや不自由さを感じることもあるのではないでしょうか。

そう考えると、「自由/不自由」は単純に二分できるものではなく、その人が置かれている状況や、その選択に至るまでの過程によっても変わってくるものなのかもしれないな、と考えています。

M

Fさん、フラットで丁寧なお答えをありがとうございます。状況から生じるものと、自分で選んだ結果生じるもの。不自由を白黒つけずに捉えるFさんの視点に触れて、考えさせられました。

まず、私の冒頭の「初期設定」という言葉について、少しだけ補足させてください。実は私、昔から目の前に選択肢が提示されたとき、あえて「辛い方・困難な方」を選んでしまうところがあるんです。自分でも変わっているなとは思うのですが、必ずそうやって生きてきました。でも最近になって、「これは自分が自発的に選んだと思っていただけで、実は最初からそういう道を行くように決まっていた(設定されていた)のではないか?」と感じるようになってきたんです。もちろん、これは年齢を重ねたからこその個人的な感覚で、すべての人に共通するものではないと今は思っています。

その上でFさんの言葉を受けて感じたのは、物事にはやはり二面性があるということです。制限されて不自由だからこそ、逆に余計なものを削ぎ落として一点に集中できることもある。身体的、あるいは環境的な拘束があるからこそ、かえって「思考の自由さ」に気づけることもある。そう考えると、おっしゃる通り「不自由=悪」では決してないんですよね。不自由な状況だからこそ能力が引き出されたり、思考の幅が広がったりする側面もある。単純な善悪で語るべきではないと、改めて気づかされました。

さらに視点を広げてみると、私は「社会」という枠組みそのものが、基本的には不自由なものだと思っています。社会の仕組み自体が合理性を追求して作られている以上、ある程度の「不自由設定」を組み込まないと全体が保てなくなってしまう。だから、私たちが生きる上で不自由が存在するのは、ある意味でとても「自然」なことなのではないでしょうか。

そこで、Fさんに一つ聞いてみたいことがあります。社会の合理性や求められる役割からくる「自然な不自由さ」の中で、Fさんはどのようにして自分なりの「自由」や「心地よさ」のバランスをとっていますか? あるいは、自分ではどうしようもない不自由な状況にポンと放り込まれたとき、Fさんの思考はまずどう動くのでしょうか?

F

Mさん個人の生き方と照らし合わせて、初期設定のように感じられているということなんですね。そのようなことも、あるだろうなと思います。

社会で生きていれば不自由が伴うということも、本質だと思います。感じたり考えたりすることは個人の自由であり、権利ですよね。でも行動には制限があります。どのようなことを考えることも自由ですが、なんでもやっていいわけではないですね。

社会的な役割を意味する「自然な不自由さ」については、自分で選んで納得していることであれば、決まりや制限ができることで、人生に安全と安心をもたらしてくれるものだと思います。

一方、どうしようもない不自由な環境に入ったときは、前を向こうとか、無理やり何かを変えようとか、しないようにしますね。大きく物事を動かそうとしないことを大切にしています。ただそれは、何もせず不自由を受け入れることとはまったく違います。事態を静観し、時間をかけながら、小さく小さく自分自身で自由を取り戻すようにするのです。あまり周りを気にしすぎず、いつも以上にマイペースにふるまうようにします。素の状態でいて、自分の感じたことや考えたことを抑えないように過ごします。

M

「無理やり何かを変えようとしない」「事態を静観し、小さく小さく自由を取り戻す」というお話、頷きながら読みました。その静かでしなやかな姿勢こそが、どんな環境下にあっても失われない、本質的な「自由」のあり方なのかもしれませんね。

Fさんの言葉を受けて私が改めて感じたのは、「自由」と「不自由」というものは、実ははっきりと分離できるものではないということです。結局のところ、置かれた状況に対して「ただ不自由さを嘆くか」、それとも「その制限の中で、今の自分にできることを理解して行動するか」という、自分自身の捉え方次第ですよね。

私たちが陥りがちな良くないパターンがあると思っていて、それは「他者を変えようとすること」や「自分ではどうにも変えられないことを望むこと」です。これこそがまさに、「不自由=不幸」に直結してしまう思考回路なのだと思います。だからこそ、Fさんがおっしゃるような状況の静観、つまり「状況をどれだけ客観的に分析できるか」や、自分自身の「思考の癖に気づくこと」がとても重要になってきます。

こうして考えていくと、私が最初に申し上げた「不自由な設定」というのは、決してネガティブなものではなく、むしろポジティブな面の方が多いのではないかという気がしてきました。

もし、何の制限もない、すべてが思い通りになる「完全な自由」の中にいたらどうなるか。私たちは工夫することも、自分と深く向き合うこともなくなり、人間としての成長はあまり得られないのかもしれません。不自由さという壁や摩擦があるからこそ、私たちは思考し、本質的な自由を見出し、育っていくことができる。

不自由とは、私たちが成長し、より深く生きるために用意された、とても恩恵のある「設定」なのかもしれませんね。

F

はじめの設定の話に繋がるのですね。不自由であっても、不幸ではないということにも繋がっているのですよね。

他人や環境よりも、まず自分の感じ方や考えを自由にして認めていくことからになるでしょうか。

目の前の与えられた不自由に取り組みながら、心の自由は大切にして生きていれば結果的に周りも変わっていくんですよね。これは経験則でわかっている方も多いと思います。すべての行動は影響しあっていますので、一貫した行動があれば周りも何かを感じざるを得ません。なので、例えば今とても不自由に感じながら目の前のことを一生懸命やられている方がいたら、自由になれるときの自分自身を大切に思い出してほしいと願います。

今回は、不自由をテーマにお届けしました。日々を頑張る皆さんへ。考え方のヒントになることがありましたら幸いです。