スーパーのお惣菜売り場が、あんなに広い理由
最近、スーパーに行くたびにお惣菜売り場の「面積」に、すこし圧倒されてしまうことがあります。
揚げ物、ポテトサラダ、筑前煮、色とりどりのお弁当。ずらりと並ぶそれらは、夕方を過ぎると、飛ぶように売れていきます。
もちろん、「お惣菜を買うのが悪い」なんて言いたいわけではありません。
ただ、フロアであれだけの面積が割かれているのを見ると、私たちは今、社会全体で「料理をするという手間(負荷)」を、ものすごいエネルギーで手放そうとしているのかもしれないなと思うんです。
買ってきたパックのお惣菜を食べる時、私たちはどんな風に過ごしているでしょうか。
おそらく、パックのままで、スマホをスクロールしながら、なんとなく作業のように胃袋へ流し込んでいることが多い気がします。
そこに感謝が生まれ辛い状況だから当然と言えば当然です。
目を閉じて、その味をじっくり噛みしめることって、あまりないですよね。
けれど、スーパーを歩いて旬の食材を選び、野菜を刻み、肉を炒める。味付けに迷いながら作った「渾身の一皿」がテーブルに並んだ時。
私たちは不思議と、スマホを見なかったりしませんか?
その一瞬の味に、ちゃんと感覚を向けて舌鼓を打つ。
「手間を省いた食事」は私たちに“満腹感”をくれますが、「手間をかけた食事」がくれるのは、もしかしたら“満足感”なのかもしれません。
今の世の中は、全体が「もっとラクに、もっと安全に」という方向へ進んでいますよね。タイパやコスパという言葉を使って、日常からあらゆる「面倒なこと」を綺麗に引き算していく。
でも、そうして手に入れたはずの「摩擦ゼロの毎日」の中で、私たちは今、心から満たされているでしょうか。
なんだか、ちょっとだけ退屈で、無気力で、身体が重たい。そんな感覚に心当たりはないでしょうか。
もしかすると私たちは、どこかで計算違いをしていたのかもしれません。「マイナス(不快)をゼロにすれば、そのままプラス(幸福)になるはずだ」と。
真冬の寒い屋外から「25℃の快適な部屋」に入れば、最初は天国です。でも、その部屋に3ヶ月閉じこもって「あー幸せ!」と言い続けるのは、たぶん難しい。
マイナスをどれだけ削ぎ落としても、辿り着くのは「何もないゼロ(無菌室)」であって、プラスの喜びそのものではない気がするんです。
私たちがなんとなく無気力になってしまうのは、疲れているからではなく、ただ「自分のありあまる熱を、ぶつける先がないから」という可能性はないでしょうか。
思想家のナシム・タレブが提唱した『反脆弱性(アンチフラジリティ)』という面白い概念があります。人間の心身は、ガラスと違って「適度な負荷を受けることで、前よりも強くなる」という性質を持っている、というお話です。
私たちが「面倒くさい」と遠ざけてきた小さな摩擦は、実は、自分の心のハリを保つためのものだったのかもしれません。
だとしたら、この退屈なアイドリング状態から抜け出すヒントは、案外シンプルなところにある気がします。
「日常の中に、あえて『自家発電の小さな負荷』を置いてみる」ということです。
誰かにやらされる理不尽な苦労は、もちろん要りません。自分で選んで、自分で自分に課す「安全な摩擦」。例えば、ほんのこれくらいのことです。
- 朝起きた瞬間、まだ温かい布団をサッと整える「ベッドメイク」
- 顔を洗ったついでに終わらせる「階段とトイレの掃除」
- 少しだけ息を弾ませて歩く「朝のジムや、1万歩の道のり」
- 誰も起きていない静かな朝に、一番重たいタスクを片付ける時間
たとえば私の場合、ここ3週間ほどで完全に定着した「階段とトイレの掃除」なんて、本当にちょっとした仕掛けなんです。
やったことと言えば、洗面台の横に「使い捨てのコットンペーパー(顔拭き用)」を置いた。
ただそれだけです。
朝、顔を洗ったら、そのペーパーを2枚とって顔を拭く。すると手元には、ほんのり水分を含んだペーパーが残りますよね。その水気を利用して、1枚でサッと階段を拭き、もう1枚でトイレの床をサッと拭いて、そのままゴミ箱へ捨てる。
これが、やってみると驚くほど気持ちがいいんです。
「よし、掃除をするぞ!」と気合を入れてバケツと雑巾を用意するような重たい負荷だと、人間の脳は一瞬で逃げ出します。でも、「顔を拭いてちょうどいい湿り気のペーパーが手元にあるから、ついでにやるか」というくらいの『計算された極小の負荷』だと、するりと身体が動いてしまう。
ここに気合や根性なんて、これっぽっちも介在していません。ただ、洗面台の横にペーパーを置いた。「環境」をセットしただけで自分の行動が勝手に変わり、毎朝、小さな熱を放電する心地よさが手に入るようになったわけです。
これらは「丁寧な暮らし」を目指すためではなくて、行き場を失って身体の中で燻っているエネルギーを、心地よく「放電」させてあげるためのセルフ・メンテナンス、と捉えてみるとどうでしょうか。
「そんなの、やらなくて済むならやらない方が得じゃん」と、頭の片隅の省エネな自分が囁くかもしれません。
けれど、これらを「あえて」やり終えて迎える、朝の気分。
そこに生まれるのは、「今日の私、えらい!」というよりは、「なんだ、私まだちゃんと熱くなれるエンジン持ってるじゃん」という、自分の生命力への小さな安心感に近い気がします。
ずっと25℃の部屋にいると、季節の風すら鬱陶しく感じてしまう。でも、真冬の冷たい空気の中を歩いたあとにすするコンビニのホットコーヒーは、どこのラウンジの珈琲よりもしみわたって美味しく感じられたりします。
人生の満足度って、もしかしたら「快適さの絶対値」ではなくて、自分でかけた負荷と、それが解き放たれた時の「小さな落差」の中にこそ生まれるものなのかもしれません。
さて、今日。
あなたはご自身のちょっと退屈している心に、どんな「心地よい面倒」をプレゼントしますか?
